子曰:「名不正,則言不順;言不順,則事不成;事不成,則禮樂不興;禮樂不興,則刑罰不中; 刑罰不中,則民無所措手足。」
孔子にとっての「正名」は、国家統治するため、最も重要な柱だ。そして、「名」というのは、一つは「大義名分」の「名」である。つまり、人と人の関係(名)に基づき、それに相応の責任や役割が行動の根拠、正当性になるということ。もう一つはその言葉自体にふさわしい、正しい意味を伝える、いわゆる「名前」の意味だ。
古今、儒教の精神や統治方式等は、中国文化の主流思想として、深く中国社会に影響している。
なのに、この「中国」という名は、誰の名?何の名だろうか?
1950年代、アメリカ政府が「二つの中国」という政策、つまり台北と北京の存在について、双方とも承認することをかなり議論していた。その後1990年代李登輝政権まで、中華民国政府は基本的に中華人民共和国の存在を認めていなかった。
儒教の視点から見れば、「二つの中国」を否定することは、政権維持するため必然な結果と思える。儒教の主張は、天下の平和こそが統一をもたらすものだ(天下惡乎定?定於一)。二つの中国の分裂は、天下の平和を破壊することになる故、受け入れることは不可能だ。そして「中国」、即ち世界や天下の中心の国という自負心と優越感に満ちた名前を付けられた政権には、世界の核として相応な責任や役割を持つと同時に、膨大な権力も手に入れる。台北も北京も相手がその「名前」を所有することを認めることはないだろう。百歩譲って、例え台北と北京が「二つの中国」を双方で理解したとしても、「大義名分」を重視する儒教は、必ず二つの「中国」の関係を問う。ただし、国民党と共産党が強く対立していたあの時代背景を考えれば、双方が合意するとは全く思えないので、「二つの中国」が相手を正式的に認めることは、今日まで起こらなかった。
国民党政権、特に蒋介石と蒋経国の時代には、儒教による統治を実行し、国民性に訴えることが多く感じられた。それは必ずしも国民党の指導者が儒教の信徒であるとは限らない。むしろ儒教信仰を国民にさせ、統治しやすい環境を整えることが国民党政権の目的だ。
植民時代が終わり、今まで中国文化に手が届かないと憧れを持っていたため、大半の台湾人は同じ民族政権の到来を、またその中国思想の代表として儒教文化を簡単に受け入れられることができたと考えられる。特に、1949年国民党が台湾に移ることになり、儒教文化の強調により、儒教を打破する共産党との区別もつけられる。一番重要なことは、儒教が主張する「君臣」、「上下」などの名分・関係を遵守すること、それは国民党が台湾における統治の正当性に繋がった。中華民國が中国大陸で創立され、自然な流れで国民党が正統な儒教の継承者になることが一部の中華民族に認識された。国民党統治初期に台湾人もそのような認識を受け入れ、または教育されていた。継承者が上位にあり、支配者の位置を得る。台湾人は自ら疑うこともなくこれらを飲み込んだ。第二次世界大戦後、国民党が台湾に対する政権を持つのは不正ではないかという疑惑が、恐らく、儒教に準じて完備されていた国民党の統治体制により、圧制され、綏撫されたのだろう。
中国という名前の争奪戦を今の時代に見れば、儒教の色が薄くなり、認識にもかなりの変化が現れる。若い世代は地理中国(=中華人民共和国)と文化中国の相違をはっきり見分けている。地理と文化の区別により「二つの中国」に対し、異なる感情を持つのも不思議ではない。「中国」という概念は長い時間に、広い地域で融和し、変形し、いくつか違う面で誕生し、二つだけでなく、三つ、四つそしてもっと多くの中国になることが普通だと考えられる。そういう中国を代表し継承することに対し、誰かの許可を得なければならないと言う訳ではないはずだ。
更に、若い世代が自分の目で見た中華人民共和国は、人が心を傾ける文化や歴史より、パワフルで急激な台頭と発展により、多くの国民に犠牲や被害が生じていることが深刻に感じ取られる。それが「中国」という名であれば、それを追求する必要性とメリットもあまり見えなくなる。
国の安定や平和を求めるため、まずは「正名」だ。
とは言っても、今の我々は中国か、中華民国か、台湾か、どれの名を称するのが良いだろうか。
もっと考えるべきなのは、儒教は今の政治や国家統治に相応しい思想なのだろうか。